キャリアを中断させる血-在宅介護実録 沈んだ太陽 第三回
介護・福祉
記事公開日:2016/05/09、 最終更新日:2019/01/04
前の記事
独身OL生活に届いた悲報。
こんにちは、ミチルです。
前回は30年前のヤングケアラー時代を振り返ってみました。今回からは現代です。
お親しくもなかった生みの親ポキさんと、どういう経緯で2度目の介護となったかをお伝えします。
さて、私は育ての親である祖母が特養に入居したことを見届けるや「もう一度自分の人生をやり直す」ため、イギリスへ渡りました。
そして、約3年の留学を終えて帰国。すでに20代も後半でしたので年齢や学歴、家族といったバックグラウンドで差別されないよう外資系企業へ就職を決めました。その後数社に勤務し、気がつけばなんとか東京で自活できるようになっていたのです。
そこそこ順風満帆に見えた独身OL生活に、突然悲報が届いたのは2010年の春ごろです。
実家の姉が「お母ちゃんがヘンになった」と電話してきたのです。昔から母のことは少しヘン、変わっていると思っていましたからあまり気にはならなかったものの、念のため週末に様子を見に行くことに…。
すると、確かに以前とは違っていることに気がつきました。
常識を疑う行動の数々。
たとえば、風呂を沸かすとか、朝起きてバスルームの窓を開けるとか、前はできていたことができなくなっていたのです。また、庭の樹木の手入れなど、以前ならかいがいしくやっていたことにもまるで興味をなくし、元から興味なんてなかったかのように振る舞うわけです。
極めつけは、近所に住む元同僚が救急車で運ばれ、その後死亡が確認された時も「あんだかよ」と一言つぶやいて、それっきり。
その方の葬式に行くよう促しても「いいよぅ、(地域の)班が違うから」と、常識を疑うような発言をしたり、「だって、一緒に働いてたんでしょ。班が違うとか関係ないでしょ」と娘達に叱られてもヘラヘラ笑ってやり過ごすだけ。
ネグレクトの疑い?
また、体重がみるみるうちに減っていき、内科でも心配されるくらいまでやせ細りました。背丈も年々小さくなり、現在では壮年期から考えると15cmは縮んだのではないでしょうか。
医者から「このままでは栄養失調になりますよ」と釘を刺され、まるで私たち娘2人が母親にご飯を食べさせていないかのような言われ方をされ、言葉を失ったこともあるくらいです。
検査の結果、母は骨粗しょう症であることが分かりました。ですから、ひょっとするとポキっと折れてしまうかもしれません。
以来、私と姉は彼女のことをポキさんと呼ぶようになったのです。
悪いことは重なるもの。
それからというもの、しばらくの間は私が東京と埼玉を往復してしのいでいました。電車とバスを乗り継ぐこと片道2時間。
ですが、とうとう限界が来ました。悪いことは重なるもので、駅までのバス路線が廃止することになったのです。
車がなければ何も用が足りない僻地なので、姉の自転車だけでは到底無理だと思いました。母の通院もあります。
第一、姉は中学時代不登校で、出席日数が足りないまま卒業させてもらったような有様なので、ネットや携帯電話を使うとか、役所にアポを取って相談するといった社会性に乏しく、すべてが一気に立ちゆかなくなっていったのでした。
結局、私は仕事を辞め、実家に戻り、車を買い、介護生活をスタートさせることになりました。四半世紀の時を越え、“母親の介護”で自分のキャリアを中断させる緊急事態がまたしても発生したのです。しかも、血が繋がっていること以外、なにもないポキさんのために。
この記事の続きはこちら
お住まい相談員がピッタリの老人ホームをご提案
エリアから老人ホームを検索する
老人ホーム探しは、わたしたちにおまかせください!
相談無料!
全国対応!
相談無料!
全国対応!