産みの母との対峙。-在宅介護実録 沈んだ太陽 第一回
介護・福祉
記事公開日:2016/04/26、 最終更新日:2019/01/04
バブル期のヤングケアラー。
皆さん、はじめまして。
私は埼玉に住むミチルと申します。実は私は、今から30年ほど前、育ての母を介護するために大学を中退した、今で言うところの“ヤングケアラー”でした。そしてアラフィフになった現在、あろうことか今度はご縁のなかった生みの母ポキさん(82歳)の介護をすることに。
都心の外資系OL生活から一転、数十年ぶりに閉鎖的な埼玉の田舎に引き戻され、オドロキの介護生活がスタートしたのです。
生まれてからずっと疎遠だった母と娘の人生に、はたして沈んだ太陽は昇るのでしょうか?乞うご期待。
育ての母と、産みの母。
改めまして、ミチルです。今回、ひょんなことから私の介護の日々を綴る機会に恵まれました。私と同じように家族の介護に明け暮れる方々と葛藤や悩み、情報をシェアすることで『一人じゃない』って、少しでも多くの人と繋がれたらと思っています。
まずは、ちょっと長くなりますが私のことをお話します。埼玉生まれの埼玉育ち、高校まで実家で過ごしていました。我が家は祖母(育ての母)、母(産みの母)、姉と私の4人暮らしで、いわゆる女系家族。父は私が小1のとき亡くなったのですが、あまり記憶がありません。というか非業の死でインパクトが強すぎたせいか思い出しようがないのです。(姉も同じことを言っています)
私と姉は祖母によって育てられ、実母とは同居してはいたのですが口を聞いたことがなく「よくわからない人」という印象でした。一度、祖母が自分の娘である彼女に向かい「チッター(ちょっとは)子のことも考えんだ」と叱りつけるのを耳にしたことがあります。その返答は「考えるってぇ、アニ(何)考えんだー」でした。その声は本当に考えが及ばない様子でした。
本当の自分の人生、のはずが…。
祖母が主導の因習にとらわれた家庭に育ったせいか、広い世界へのあこがれが強く、高校卒業後は遠くの大学を選び、横浜で一人暮らしを始めたのでした。大学では、それまで祖母により刷り込まれた間違った価値観を粉砕するような人びととの出会いがあり、「これから本当の自分の人生が始まる」ような開放感を味わっていました。世の中はバブルで賑やかしい時代でした。とはいえ、帰省するときだけは憂鬱でした。
祖母は私の手に入れた自由が気に食わないらしく「ミチル、あんまり知恵つけんな」と忌々しそうに牽制するのでした。いくら大学は知恵をつける場なのだと説明しても、農家の出で尋常小学校卒の祖母には、義務教育以上の“上のガッコウ”へ進む意義が理解できません。どうやら、かつて自分の娘にしたようには孫娘をコントロールできそうにないと薄々気がつき、言い知れぬ焦燥を感じ始めていたのかもしれません。
脳の画像が意味するもの。
幸せだったのはそこまで。大学3年の年明け、すべてが変わりました。祖母が風呂場で突然倒れたのです。脳梗塞。正月2日目だったため搬送先には内科医がおらず、とりあえず宿直の外科医がCTスキャンだけして、そのまま空きベッドへ寝かされました。
しかし祖母は麻痺がひどく、一晩中バタバタと腕の動きが止まらない状態に陥っていました。当時はまだ患者を拘束できたので、看護師らによって祖母はぐるぐる巻きにされ、4日後に内科医が出勤してきたときには体中がアザと血だらけでした。そして、脳の画像から老人性痴呆症(現在の認知症)であると告げられたのです。治る見込みのない病気だと。
「ミチルが全部いけねー!」母が絶叫しました。それまで一切の関わりを拒絶してきた人が、血走った眼で私を睨みつけました。その瞬間、“全部”という言葉に込められた強い憎悪が私を圧倒したのです。私は生まれて初めて、この生母と向き合った気がしました。母娘のつながりは皆無なのに、血だけはヘタに繋がった彼女と。
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